思春期の少女が朝起きてから夜寝るまでの一部始終を、ある女性読者から太宰へ送られた日記を元に少女の立場で綴った短編小説 【女生徒 – 太宰治 1939年】 オーディオブック 名作を高音質で

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往年の文豪、有名な作家たちが残した短編及び長編小説、手記や学説などの日本文学の名作を、高性能な音声合成での読み上げによる朗読で、オーディオブックを画像や動画を交えて作成し配信しています。気に入って頂けましたら、是非ともチャンネルの登録を宜しくお願い致します。
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■一部抜粋
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。

かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。

箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。

パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。

濁って濁って、そのうちに、だんだん澱粉が下に沈み、少しずつ上澄が出来て、やっと疲れて眼がさめる。

朝は、なんだか、しらじらしい。

悲しいことが、たくさんたくさん胸に浮かんで、やりきれない。

いやだ。

いやだ。

朝の私は一ばん醜い。

両方の脚が、くたくたに疲れて、そうして、もう、何もしたくない。

熟睡していないせいかしら。

朝は健康だなんて、あれは嘘。

朝は灰色。

いつもいつも同じ。

一ばん虚無だ。

朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。

いやになる。

いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶えしちゃう。

 朝は、意地悪。

「お父さん」と小さい声で呼んでみる。

へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと蒲団をたたむ。

蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。

私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。

よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。

どうして、こんな掛声を発したのだろう。

私のからだの中に、どこかに、婆さんがひとつ居るようで、気持がわるい。

これからは、気をつけよう。

ひとの下品な歩き恰好を顰蹙していながら、ふと、自分も、そんな歩きかたしているのに気がついた時みたいに、すごく、しょげちゃった。

 朝は、いつでも自信がない。

寝巻のままで鏡台のまえに坐る。

眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。

自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。

眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。

全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。

汚ないものなんて、何も見えない。

大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目にはいって来る。

眼鏡をとって人を見るのも好き。

相手の顔が、皆、優しく、きれいに、笑って見える。

それに、眼鏡をはずしている時は、決して人と喧嘩をしようなんて思わないし、悪口も言いたくない。

ただ、黙って、ポカンとしているだけ。

そうして、そんな時の私は、人にもおひとよしに見えるだろうと思えば、なおのこと、私は、ポカンと安心して、甘えたくなって、心も、たいへんやさしくなるのだ。

 だけど、やっぱり眼鏡は、いや。

眼鏡をかけたら顔という感じが無くなってしまう。

顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。

それに、目でお話をするということも、可笑しなくらい出来ない。

 眼鏡は、お化け。

 おみおつけの温まるまで、台所口に腰掛けて、前の雑木林を、ぼんやり見ていた。

そしたら、昔にも、これから先にも、こうやって、台所の口に腰かけて、このとおりの姿勢でもって、しかもそっくり同じことを考えながら前の雑木林を見ていた、見ている、ような気がして、過去、現在、未来、それが一瞬間のうちに感じられるような、変な気持がした。

こんな事は、時々ある。

誰かと部屋に坐って話をしている。

目が、テエブルのすみに行ってコトンと停まって動かない。

口だけが動いている。

こんな時に、変な錯覚を起すのだ。

いつだったか、こんな同じ状態で、同じ事を話しながら、やはり、テエブルのすみを見ていた、また、これからさきも、いまのことが、そっくりそのままに自分にやって来るのだ、と信じちゃう気持になるのだ。

どんな遠くの田舎の野道を歩いていても、きっと、この道は、いつか来た道、と思う。

歩きながら道傍の豆の葉を、さっと毟りとっても、やはり、この道のここのところで、この葉を毟りとったことがある、と思う。

そうして、また、これからも、何度も何度も、この道を歩いて、ここのところで豆の葉を毟るのだ、と信じるのである。

また、こんなこともある。

あるときお湯につかっていて、ふと手を見た。

そしたら、これからさき、何年かたって、お湯にはいったとき、この、いまの何げなく、手を見た事を、そして見ながら、コトンと感じたことをきっと思い出すに違いない、と思ってしまった。

そう思ったら、なんだか、暗い気がした。

また、ある夕方、御飯をおひつに移している時、インスピレーション、と言っては大袈裟だけれど、何か身内にピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって、何か、生きて行くことにふわっと落ちついたような、黙って、音も立てずに、トコロテンがそろっと押し出される時のような柔軟性でもって、このまま浪のまにまに、美しく軽く生きとおせるような感じがしたのだ。

このときは、哲学どころのさわぎではない。

盗み猫のように、音も立てずに生きて行く予感なんて、ろくなことはないと、むしろ、おそろしかった。

あんな気持の状態が、永くつづくと、人は、神がかりみたいになっちゃうのではないかしら。

キリスト。

でも、女のキリストなんてのは、いやらしい。

 結局は、私ひまなもんだから、生活の苦労がないもんだから、毎日、幾百、幾千の見たり聞いたりの感受性の処理が出来なくなって、ポカンとしているうちに、そいつらが、お化けみたいな顔になってポカポカ浮いて来るのではないのかしら。

 食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。

ことし、はじめて、キウリをたべる。

キウリの青さから、夏が来る。

五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。

ひとりで食堂でごはんをたべていると、やたらむしょうに旅行に出たい。

汽車に乗りたい。

新聞を読む。

近衛さんの写真が出ている。

近衛さんて、いい男なのかしら。

私は、こんな顔を好かない。

額がいけない。

新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。

一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。

一字一句、最大の効果を収めようと、うんうん唸って、絞り出したような名文だ。

こんなにお金のかかる文章は、世の中に、少いであろう。

なんだか、気味がよい。

痛快だ。

 自分で、いつも自分の眼鏡が厭だと思っているゆえか、目の美しいことが、一ばんいいと思われる。

鼻が無くても、口が隠されていても、目が、その目を見ていると、もっと自分が美しく生きなければと思わせるような目であれば、いいと思っている。

私の目は、ただ大きいだけで、なんにもならない。

じっと自分の目を見ていると、がっかりする。

お母さんでさえ、つまらない目だと言っている。

こんな目を光の無い目と言うのであろう。

たどん、と思うと、がっかりする。

これですからね。

ひどいですよ。

鏡に向うと、そのたんびに、うるおいのあるいい目になりたいと、つくづく思う。

青い湖のような目、青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れて写る。

鳥の影まで、はっきり写る。

美しい目のひととたくさん逢ってみたい。

 けさから五月、そう思うと、なんだか少し浮き浮きして来た。

やっぱり嬉しい。

もう夏も近いと思う。

庭に出ると苺の花が目にとまる。

お父さんの死んだという事実が、不思議になる。

死んで、いなくなる、ということは、理解できにくいことだ。

腑に落ちない。

お姉さんや、別れた人や、長いあいだ逢わずにいる人たちが懐かしい。

どうも朝は、過ぎ去ったこと、もうせんの人たちの事が、いやに身近に、おタクワンの臭いのように味気なく思い出されて、かなわない。

 ジャピイと、カア(可哀想な犬だから、カアと呼ぶんだ)と、二匹もつれ合いながら、走って来た。

二匹をまえに並べて置いて、ジャピイだけを、うんと可愛がってやった。

ジャピイの真白い毛は光って美しい。

カアは、きたない。

ジャピイを可愛がっていると、カアは、傍で泣きそうな顔をしているのをちゃんと知っている。

カアが片輪だということも知っている。

カアは、悲しくて、いやだ。

可哀想で可哀想でたまらないから、わざと意地悪くしてやるのだ。

カアは、野良犬みたいに見えるから、いつ犬殺しにやられるか、わからない。

カアは、足が、こんなだから、逃げるのに、おそいことだろう。

カア、早く、山の中にでも行きなさい。

おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。

私は、カアだけでなく、人にもいけないことをする子なんだ。

人を困らせて、刺戟する。

ほんとうに厭な子なんだ。

縁側に腰かけて、ジャピイの頭を撫でてやりながら、目に浸みる青葉を見ていると、情なくなって、土の上に坐りたいような気持になった。

 泣いてみたくなった。

うんと息をつめて、目を充血させると、少し涙が出るかも知れないと思って、やってみたが、だめだった。

もう、涙のない女になったのかも知れない。

 あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。

お掃除しながら、ふと「唐人お吉」を唄う。

ちょっとあたりを見廻したような感じ。

普段、モオツァルトだの、バッハだのに熱中しているはずの自分が、無意識に、「唐人お吉」を唄ったのが、面白い。

蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と言ったり、お掃除しながら、唐人お吉を唄うようでは、自分も、もう、だめかと思う。

こんなことでは、寝言などで、どんなに下品なこと言い出すか、不安でならない。

でも、なんだか可笑しくなって、箒の手を休めて、ひとりで笑う。

 きのう縫い上げた新しい下着を着る。

胸のところに、小さい白い薔薇の花を刺繍して置いた。

上衣を着ちゃうと、この刺繍見えなくなる。

誰にもわからない。

得意である。

■朗読作品紹介

@西村俊彦の朗読ノオト
【朗読】太宰治『女生徒』【原文日本語字幕あり/Japanese subtitles】
https://youtu.be/Tduwp3-kwms

@シャボン 朗読横丁
朗読 太宰治『女生徒』

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